敦美お姉さんのこと

今日は「敦美お姉さん」のことを書きたい。これまで何度も書こうとして言葉につまり、明日伸ばしにしてきた。自分の中ではまだ、消化できていない。でも、そろそろ前を見なくては。

「敦美お姉さん」はおばさんなのだが、55歳と49歳で年齢がとても近い。六つしかちがわないので、私はいつも「お姉さん」と呼んでいた。

一人っ子の私にとって、敦美お姉さんは唯一「お姉さん」と呼べる存在。それも、できのいい姉。母ととても仲が良く、よく長電話をしていたらしい。それにひきかえ私は、母と長電話をした記憶がほとんどない。

私がスペインへ渡ってから、二十年という月日が流れた。その間に、母と敦美お姉さんは、いったいどんな会話をしたのだろう。どんな時間を一緒に過ごしたのだろう。と、時々思う。

二十代で家を出て、風来坊のような「息子のような娘」だった私と、敦美お姉さんは、まるでタイプが正反対。いつもこまめに私の両親に電話をし、旅行に誘い、何かというと訪ねては、一緒に食事をしていた。

そしてすべての写真を焼き増しし、きれいにアルバムに貼り、両親のもとに送り続けてくれたのも、敦美お姉さんだった。母にとっては「できのいい娘」のような存在だったのにちがいない。

私ができなかったことを、敦美お姉さんは代わりにしてくれたんだと思う。何も言わなかったけれど。
「そばにいて、電話をして、食事をして、旅行をして・・・。それが、お姉さん(私の母)のしてほしいことなんだよ!」
と。それらの写真は、私に語りかけてくる。

「出来の悪い妹」の代わりに、「完璧な姉」をつとめてくれた敦美お姉さん。私はいつもできのいい姉の横で、安心していればよかった。

一年半前の母の葬儀の際も、敦美お姉さんは心を砕いて周りの方々をもてなしてくれた。遠方より駆けつけてくださった親戚の方々に、すばやくお茶を淹れ、笑いを作りだして、場を温めてくれた。咳をしながら・・・

ベラと私のライブ演奏会には、友人家族を引き連れて応援に来てくれた。名古屋で行った展示会にも暑い中、体調をおして。その頃は、治療でずいぶん体もえらかったはずなのに・・・

敦美お姉さんとの最後の思い出は、昨年の大晦日。西浦温泉へ「年越し家族旅行」に出かけた時。
「楽しい思い出がほしい!」
と、無理を言って実現してもらった家族旅行。

「大晦日&元旦を、どうしても家族で過ごしたい!」
という、私のわがままをかなえてくれた。ベラと母をたて続けて亡くし、どうしても「一年の終わり」と「新年の始まり」を、家族と一緒に過ごしたかった。

食欲はイマイチながらも、かつらゲームに大笑いし、年越しそばを
「おいしいねー」
と、すすっていた敦美お姉さんの姿を、今でもはっきりと憶えている。

だから、信じられなかった。信じたくなかった。
一緒に新年を祝って、まだ数か月。敦美お姉さんは急に体調をくずし
「夏に会おうね」
という約束の前に、他界した。

あんなにがんばっていたのに。あんなに生きようとしていたのに。
どうして。と、また思う。どうしてはない。とわかっているけど。

看病にも、葬儀にも行けなかった。そのことが、「悲しみと怒りの釘」になって、ずっと心に突き刺さっている。その釘は、たぶん抜けないのだろう。何か「行動」を持って、敦美お姉さんを送り出さない限り。

じゃあ、何をするのか。
私にできること。それは、アートしかない。だから「アート葬」をしよう。一人マラガで。数か月遅れだけど、待っていてくれると思う。これまでずっと、出来の悪い妹が成長するのを、何年と待っていてくれたんだから。

今日の写真は、敦美お姉さんと秀兄ちゃんが結婚した時の引き出物の「マス」(写真)。ここにペイントして「二人の結婚記念日にプレゼントしたい」と思っていた。

お盆にペイントして、「アート葬」の捧げものの一部にしたいと思う。
色とりどりのアート葬。天国からでも、よく見えるように。

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「敦美お姉さんのこと」への2件のフィードバック

  1. 敦美お姉さんと昨年お会いした時は元気いっぱいに見えました。だから、訃報を聞いた時に「まさか」と思いましたが、残念ながら本当のことですね。「アート葬」、あの明るい笑顔で見てくれると思います。

  2. クロさん、ありがとうございます。
    敦美お姉さんの明るい笑顔と声が大好きでした。
    「できなかったことを悔やむ暇があったら、ひたすら行動!」
    そう思って生きています。

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