第78話 天井桟敷の人々

マラガのセントロ(中心街)を歩いていると、マラガの自慢『セルバンテス劇場』の、今秋の催しの案内が目に入った。
その中の一行に、わたしの目は釘づけになった。
「うわぁ~っ、ベボ・バルデスが来るの?マラガに!すごいぃ~」
その足でチケット購入窓口に走り、さっそくチケットの値段を確認。
ふだん買う『パライソ席(一番上の席番号のないゾーン)』ではなく、今回は思い切って『パルコ席(バルコニー)』!
というのも、ピアニストは右手が見えるようにピアノが置かれるので、ベボ・バルデスの全身および手を見ようとすると、
絶対に『ステージ向かって左、2階パルコ席』しかないのである。
「どうか、高くありませにょうに!」
祈りながら、窓口のお姉さんに尋ねると
「1人25ユーロ、お二人で50ユーロですね」
「50・・・・・」
そんな大金を、持ち歩いていないので、あわてて家に飛んで帰り、ベラに事情を説明する。
「50ユーロ!」
「だって、ベボ・バルデスに会えるなんて、人生これっきりだよ!」
「パライソ席なら、二人で15ユーロなんでしょ」
「だめっ!ぜったいパルコ。手が見えないんじゃあ意味ないもん」
「・・・・・」
結局、今週の食費をきりつめ『パルコ席2枚』を、入手することになった。

それから一ヶ月、わたしの心は、初めて会うベボ・バルデスのことでいっぱいだった。
ラテン圏ではとても有名な、キューバ人のピアニスト。すごいテクニックを持ちながら、けっして『温かみ』を失うことのないじんわりと心にしみるピアノを弾く。
そして抜群のリズム感。
(ああ~っ、どうしたら、あんなふうに左手を使えるようになるんだろう!)
ベボ師匠のCDを聴きながら、まねして弾いてみる。
そして、いよいよコンサートの日がやってきた。

「す、すごい眺め・・・」パライソ席との、あまりの眺めのちがいに、息をのむ。
「お金もち、って、いつもこんなふうに見てるんだなぁ」
ため息をもらすわたしに、ベラが答える。
「誰だったか、有名な音楽家が言ってたよ。僕の本当のファン、僕の音楽を必死な思い聴いているのは、パライソ席にいる誰かだ、って」
セルバンテス劇場の、舞台前に並ぶ一等席は、お金持ちに独占されている。美しい服に身を包んだ人たちが、ふわりと席に着く。当然、といった顔で。わたしたちのように『一週間の食費をきりつめて来る』など、考えもしないんだろう。

「みなさん、こんばんわ」司会者が、ゆっくりとステージの上に現れる。簡単な今夜のプログラムの説明のあと、
司会者は、わたしたちをひっくり返らせるニュースを、のたまった。
「今回特別に、コンサートの後、ベボ・バルデス師匠にみなさんから『質問するコーナー』をもうけました。時間の都合上、5人の方に限らせていただきます。おたのしみにどうぞ!」
「聞いた!ベボ・バルデスに質問できるんだって。ベボ師匠と話せるんだよ!」「5人ね」
「5人かぁ~!」
わたしの頭の中は、あふれる歓びで、もう何も考えられなくなった。
(5人のうちの一人は自分だ!)
そう、はっきりと感じた。このために今日、自分はここまで来たのだ。
そして『一週間の野菜いため』は、そのためだったのだ、ということが今、明らかになった。
コンサートはもう夢心地だった。ベボ師匠はなんと軽やかにピアノを弾くんだろう。余分な音符のない、最低限の音符とデリケートな強弱からかもし出される空気、絶妙なリズム。
「ああ~っ」
もう全身、感動の波に包まれて、ふらふらだった。

割れんばかりの拍手の中、コンサートが終わり、いよいよ待ちに待った『質問コーナー』となった。ふたたび司会者が現れ
「では、まず一人目の方から・・・」
「はーい、おねがいしまーす!質問させてくださーいっ!」
わたしは全力で叫んだ。その瞬間、セルバンテス劇場のお客さんが、こちらを見た。
「質問したいんです、お願いします!」
劇場内が一瞬、ざわっと揺れた。が、司会者はそれを無視して、舞台前の『一等席』のお客さんを指名した。金持ちの、実につまらないスノッブな質問が終わり
「では二人目の方・・・」
「ここでーす!お願いします、質問させてくださーいっ!」
会場はさらに、ざわざわっとなった。お客さんの中には、ステージではなくもうわたしたちのいるパルコに向き直っている人もいる。
3人目。会場中のお客さんは今や、ベボへの質問や応対より、
「いったい、あの子は何者なのか」
「果たして、質問できるのか」
ということに一点集中され、会場は異様なムードに包まれた。そんな中、ベラだけが
「もも!みんな見てるよ、黙って、静かに!」
などと、100キロの巨体を、パルコの中に縮めている。
3人目も司会者は、パルコで飛び跳ねるわたしをかたくなに無視。そして4人目のとき、とどめを刺すように
「質問は、舞台前のお客様に限らせていただきます」
と、冷たい声で言った。
「ほら、もも、これは一等席のお客さんの特権なんだよ」
ベラは、必死でわたしをなだめようとする。が、
「そんなこと、誰が決めたの!」
「って、今、司会者の人が言ったじゃないか」
「わたし、ぜったい質問する!あの人たちには次があるけど、わたしにはないんだもん!」
ベラは絶句すると、へなへなと椅子に沈みこんだ。
だってこれを逃したら、たぶん二度とベボ師匠には会えない。
これは、わたしにとって、一生一大のことなのだ。そう思ったら、涙まで出てきた。そのときだった。

「では、5人目の方・・・」
司会者がそう言ったとたん、思ってもみないこと、『奇跡』が起こった。
隣のパルコ席で一部始終を見ていた人たちが、いっしょに立ち上がって叫んでくれたのだ。
「当ててあげて~!お願いします」
「この子に、質問させてあげてー!」
司会者はそれでもかたくなに断った。
「マイクがそこまで届きませんので」
「マイクなんてなくたって、わたし、地声でだいじょうぶです!」
その声は、オペラ歌手もまっさおの声量で、セルバンテス劇場に広がった。その瞬間、思ってもみないことが、更に起こった。会場のあちこちから
「当ててあげて~!」
「あの子に質問させてあげろー」
などの声が、上がり始めたのだ。わたしはパルコから身を乗り出し
「ポル・ファボール!(お願いします)」
をけんめいにくりかえした。さすがの司会者も、会場全体を無視することはできず、
「では、5人目の方の質問です。どうぞ」
わたしは、劇場中のお客さんが見守る中、鼻水をずるずる言わせながら、光の中にたたずむ師匠に話しかけた。
「マエストロ!(師匠)」
「シィ、ディメ(なんだい、言ってごらん)」
ベボ・バルデスは、笑っていた。
「わたしは、ピアニストです。ピアニストにとって、一番大切なものは何ですか」質問としては、あまりに単純かもしれない。
でもその答えを、わたしはベボ師匠の口から聞きたかった。
半世紀以上もピアノを弾いている、その人の口から。
ベボ師匠は、笑いながら言った。
「そりゃあ、ピアノが好きだってことさ。好きで好きで、たまらないってことだよ。君はピアノが好きかい?」
「大好きです」
ふんふんとうなづきながら、ベボは、彼の音楽と同じ温かさで、言った。
「そのまま進んで行きなさい。練習、ちゃんとするんだよ」
その瞬間、胸がいっぱいになって、もう言葉が出なかった。
「グラシアス、グラシアス・・・」
ベボ師匠、および劇場のみなさんに、何度も何度も頭を下げ、お礼を言った。
劇場から出口に向かう途中、いろんな人から声をかけていただいた。
「よかったね!質問できて」

マラガ人の温かさ、人間味、瞬間沸騰的・参加力、を感じるのはこんなときだ。
「ああ~、今日のこと、わたし一生忘れない!」
「僕も」
それまで黙っていたベラが、ぼそりとつぶやく。
「もう、ももと絶対、劇場行かない」
「そんな~」
しかし、まだそのとき、ベラは知らなかったのだ。
その1年後、今度はアルゼンチンから、ももの大ファンのピアニスト
『ホセ・コランジェロ』師匠が、マルベージャの劇場にやってくることを・・・
歴史は繰りかえされる。

Facebook にシェア
[`google_buzz` not found]

「第78話 天井桟敷の人々」への2件のフィードバック

  1. なかなか、全力で求めるという機会もないし、そこまでの情熱が注げる対象もない。そういう機会や情熱を持っているももちゃんは心からステキだなぁと思います。ホセ・コランジェロ師匠の話も楽しみです。

  2. クロ隊長、いつも心温まる励まし、ありがとうございます。
    まわりからは、いつもあきれられているけれど
    クロ隊長の言葉を聞いたら
    元気が出てきました。

    『ホセ・コランジェロ師匠』の話は、
    また、そのうち書きますね。
    「よく、あんなことを・・・・」
    と、あとから思うんだけど、そのときは・・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です