17.秀兄ちゃんと敦美お姉さん

豊橋の実家では、引き続き「アルバムの大整理」。三十年だか、四十年ぶりなので、すごい量。ときどき父も手をとめ
「おおー、なつかしいなぁ」
などと、声を漏らしている。なにより、二人して連発したのが
「若いなあ!」
って。(笑)思わず。父も私も。みなさんも。

そんな中、私は一枚の写真に目をとめた。「秀兄ちゃんと私」の写真。ぼけた色合い。もう四十五年以上前のもの。中津川の祖父母の家の縁側で、秀兄ちゃんはきっと、私の世話を任されたのだろう。

その、私の肩に置かれた秀兄ちゃんの手を、私は一生懸命に握っていた。そのことに強く感動した。信頼していたんだなぁ。「秀兄ちゃん」とは言うものの、正確には私の叔父。年齢が十二歳しかちがわないので、私にとっては完全に「兄」だった。

秀兄ちゃんはクラシックギターを習っていて、大学生の頃よく一人でつまびいていた。その足元にまとわりついて遊んでいたのが私で
「あっちに行け!」
と、軽く足蹴りにされることもあった。気がする。受験勉強の時も
「遊んで―遊んで―」
と、つきまとっていたので、本当に迷惑をかけたと思う。それでも
「よし!どっちが早く眠るか競争しよう」
などと丸めこまれ、目が覚めると誰もいない。こともあった。

小学生になり、ピンクレディやテレビの曲を耳コピーして弾いていると
「バッハを弾きなさい、すばらしいから」
と言う。「どこが?」と当時は思ったが、今同じことをピアノ教室で、子供たちに向かって私が言っている。また「星の王子さま」の本をプレゼントしてくれたのも秀兄ちゃんだった。スペインへ渡る時、スペイン語の辞書の間に押し込まれていた。

そんな秀兄ちゃんが、ある日突然
「お嫁さんをもらう」
と聞いたときは、度胆を抜かれた。少なくとも私の知っている限り、秀兄ちゃんに彼女はいなかったはず。「二人そろってご挨拶」に現れた秀兄ちゃんの横には、超美人の女の人が立っていた。

それが、敦美お姉さん。いったいこれは。もてないと思っていた秀兄ちゃんが、なんと!一発逆転ホームラン。子供心に「やるなぁ」と思ったことをおぼえている。

敦美お姉さんは、本当は叔母。なのだが、数歳しか離れていないので、私にとっては完全に「姉」。それも気が利いてしっかり者で、私から見ると何をやっても完璧。話術にもたけていて、いつでもどこでも誰とでも楽しくおしゃべりし、その場を和ませてしまう。

生前の母はよく、敦美お姉さんと「長電話」をしていたらしい。私は母と長電話をした記憶がない。アルバムの整理をしていて気付いたが、敦美お姉さんと母の旅行の写真の多いこと!
「二人はこんなに沢山の時間を、思い出を重ねていたんだ!」

私は、しみじみとした気持ちになった。たぶん母は、敦美お姉さんのような娘を持ちたかったにちがいない。そばにいて、長電話をしたり、旅行に行ったり。そして誕生日や年末年始には一緒にお食事をして。そして写真をすべてアルバムにして送り届けてくれるような・・・。

母への申し訳なさと、敦美お姉さんへの感謝の気持ちでいっぱいになった。私は「できのいい姉」がいてくれることにかまけて、スペインへ行ったきりの風来坊。すべて事後報告。相談もなし。
「男の子を持ったと思って」
と、母が言っていたことを思い出す。

今年は、敦美お姉さんから「ワインの詰め合わせ」と「青緑のスカーフ」が届けられた。父には「おしゃれなセーター」。こういうセンスも抜群。とにかく垢抜けているのだ。

秀兄ちゃん、敦美お姉さん、また七月に会えるのを楽しみにしています。ハビーが一緒に食事をしたいそうです。これからもよろしくおつきあいお願いします。お体を大切にしてくださいね。

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