第30話 涙のタンゴレッスン

東京駅でお会いした木田さんは、とてもダンディな方だった。
ぴしっとした品のいいスーツ姿で、私を見るなり
「想像と全然違うねぇ、君」
「そうですか…」
どういう意味でとはさすがに聞けず黙っていると
ひとことポロリ。
「こんな細腕で、タンゴ弾けるのかねぇ」
やはり音楽屋への道は
腕立て伏せ、バーベル挙げに通ずるのだ。

移動中の電車の中で木田さんが次から次へと語られるお話は
決して“説明”でなく
木田さんがタンゴにかける“熱い想い”だった。
言葉一つ一つに迫力があるし、愛さえ感じる。
「はぁ──っ」
「へぇ──」
「あぅ──」
電車の中の人々が木田さんの熱弁に振り返る。
そんなことは眼中に無く熱く語り続ける
木田さんに私はすっかり圧倒された。
タンゴが好きな人というのはそもそも
ラテンの血が多く流れているのでは?つまり
“血中ラテン人度”が高いのでは?

さて、私たちは木田さんの親類の江林さん宅に向かった。
木田さん曰く
「あそこなら好きなだけビデオが見られる」
江林さんは初対面の私にも温かいもてなしをしてくださった。
「お風呂沸かしてあるわよ。お茶でも飲む?」
と絶えず気にかけてくださった。
「そんなのいいから、ビデオ、ビデオだよ!」
木田さんは江林さんを全く無視してカバンの中から
ビデオを取り出す。
「あああっ!」
思わずうめき声。せいぜい2-3本だろうと思っていたら軽く20本はある。
木田さんの宝物、家宝であるビデオは
そんじょそこらの人ではお目にかかれない代物のようだった。
それを木田さんの解説を聞きながら見せて頂けるなんて。

「おお──っ!」
ビデオが始まってテレビににじり寄った。
次から次へと現れるタンゴアーティストたちのライブ。
アーティストの自宅で撮ったマル秘プライベート演奏もある。
その時、木田さんがのたまった。
「こいつがオマールだよ。すごい手してるだろ。
グローブみたいな手してやがる」
もう声も出ない。ただただ画面に食い入って一挙一動を見守るので精一杯。
「もう一度見せてください!お願いします」
木田さんにビデオの巻戻しをさせていることにも気づかず
今や画面直前50cmにかぶりついていた。

後から木田さんにこの時のことをこう言われる。
「ビデオがかかったら座布団から飛び出してテレビの前にかぶりつきでさ、
俺の説明も耳にはいらねぇんだから。お前、聞いてなかったろ」
そう言われれば、何も聞こえなかったような。

画面に次々現れるマエストロ(先生)たちの姿。
古いものは8mmビデオで会話入りだ。
ビデオ1本につき10人くらいのアーティストのライブ演奏がノンストップで収録されている。
演奏前の木田さんとの会話まで入っていてマエストロたちの素顔が覗け
タンゴ史の貴重な記録映像でもある。

時計の針が12時をさす頃、江林さんは優しく言ってくださった。
「もう遅いから寝かしてあげたら?愛知県からやってきてお疲れのはずよ」
「バカ!何言ってんだ。愛知からわざわざ来たのはこのビデオを見るためなんだよ。
これを見ないで眠れるか!」
その熱さに私は膝を正す思いだった。
「よろしくお願いします!」
「次いくぞ!」
「はい!」
結局、私は4時過ぎまでビデオを見続けた。
翌日お土産にと木田さんが手渡してくれたのは2本のビデオ。
「オマール・バレンテ入ってるから」
なんと木田さんは私が寝た後、ビデオをダビングしてくださったのだ。
「タンゴはさ、涙なんだよな」
そう言っていた木田さんの横顔を思い出して
私は新幹線の中で少し泣いた。

(第31話につづく)

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