12. みさのちゃんとようちゃん・前編

あさってには、名古屋のライブハウス「エルム」で演奏があるわたしたちは
きみどり家にある「わたしが3歳のとき買ってもらったピアノ」および
「会社員時代、名古屋で一人暮らしをしているときに買った電子ピアノ」で
演奏曲をさらっていた。

いずれも、触るのは久しぶり。
ピアノは41年前、電子ピアノは21年前に購入、というのだから、
よく、がんばっている。日本の湿気、地震に耐え、
まだ出ない音や、沈んだままの鍵盤がない。

わたしたちは40分ほど、合わせ練習をしていると
玄関から「こんにちは~」という元気な声が響いた。
みさのちゃんとようちゃんである。
今日はこれから、みさのちゃんの家で夕食を食べることになっている。

「まぁ、変わらんねぇ、みさのちゃん」
「上がって、お茶でも飲んでってよ~」
両親がさっそく二人を家に招き入れ、
「ごめんね。もも、今まだピアノの練習中でねぇ」
と、申し訳なさそうに、謝っている。これはわたしが子どもの頃と同じ。
ピアノの練習中は、「友達の方が待つ」のが
きみどり家のしきたりなのである。

みさのちゃんとわたしは、小・中学校の同級生で、
中学のときは 「生徒会」の役員として半年、
「貴重な放課後」を、いっしょに過ごした中だ。

「生徒会室」。それは、不思議な空間だ。
授業中でも部活中でもない、誰からも管理されていない時間。
それは、分刻みの学校生活の中で、ゆっくりと深呼吸のできる
不思議なエアーポケットのような空間であった。

生徒会を担当する先生も、授業中でも、部活中でも、担任でもないので
生徒会室にいるときは、なんだかリラックスして見える。
対応もいつもとちがい、人間的かつ、個人的である。

わたしたちは生徒会室で確かに「仕事(雑務)」はやっていたが、
何を?と言われると、今、ひとつも思い出せない。
思い出すこと言ったら、わたしが作った「もも新聞」がいつのまにか
「もうよせ、もも新聞」になっていたとか、
一度「焼き芋屋」が通ったとき、「待って~」と校門から飛び出して行き
焼き芋を抱えて戻ってきたら
担当の細井先生が鬼のような顔をして待っていたこととか。
こっぴどくしかられたことは、言うまでもない。
いや、しかられていたのはわたしで、みさのちゃんは生徒会室で笑っていた、
というのが正しい。

そんなこんなで30年がたち、 わたしたちはまだ、友達でいる。
それも、ほとんど変わっておらず、互いの言動を見ながら
「これじゃ、小学生のときと同じじゃ~」 と、驚かされる。
まったく三つ子の魂、百までとは、よく言ったものだ。

みさのちゃんと、だんなさんのようちゃんは
実は去年、スペインのマラガまでわたしたちに会いに来てくれた。
それも「絶対にやめた方がいい8月のお盆」
つまり、マラガが最高に混雑する「8月のフェリア(夏祭り)」の週に。

「ええ~っ、こんな時期に・・・」
最初、べラは言葉を失い
「飛行機、オーバーブッキングにならなきゃいいけど」
と、本気で心配していた。

そんな心配をよそに、ふたりは無事マラガに到着し、
わたしたち4人は、白い村にドライブに行ったり、バーべキューをしたり、
うちのテラスでいっしょに夕食をしたりしながら、いろいろな話をした。
30度の熱風の中、夜9時まで沈まない太陽といっしょに。
楽しいこと、悲しいこと。
わたしたちが人生で決心し、そのために闘っていること。
人生でわたしたちは、何を望んで生きているのか。

ようちゃんとべラがシエスタをするあいだ、わたしたちは洗濯をし
あっというまに夜の11時、あんまり楽しくて話がつきないので
「もうちょっと近かったらいいのにねぇ~」
と言うと、みさのちゃんはあきれた顔をして、
「それは、豊橋と蒲郡みたいな距離の人が言うことだよ!」
と、答えた。

あの日から一年がすぎ、わたしたちは豊橋で再会した。
「みさの~、ようちゃん!」
べラが、うれしそうに名前を口にする。
わたしたちはマラガ式に、肩を抱いて再会を確かめあった。
一度マラガに来た者は、もう「アブラソ(抱擁)の洗礼」を受けているので
再会ハグも、まったくふつ~なのだ。

「まさかべラに、日本で会えるなんて!」
わたしたちは、みさのちゃんとようちゃんの住む
「木の家」に向かって出発した。

(「みさのちゃんとようちゃん・後編」につづく)

 

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