19. 伊藤さんと中岡さん・前編

わたしが19歳のとき出合った、伊藤さんと中岡さんは、
当時、名古屋の新栄にある、少数精鋭の「広告代理店」の代表であった。
少数精鋭ということは、企画、プレゼンから始まり、営業、
デザインの直し、コピーづくり、イラストマップづくりまで
なにからなにまで、できなくてはならない。
社員は数人だが、その一人一人には
会社を3つあわせたくらいの、幅広い知識と実力が要求された。

「どうして、うちに?」
「イエローページの上から順に電話してるんです」
そこで、むっとすることもなく伊藤さんは、心配するように言葉をつづけた。
「それで、仕事見つかったの?」
「いえ・・・マスコミ業界の募集を見ると「経験者優遇」って、あるんですが
新卒の場合は、どうやって「経験」を積んだらいいんでしょうか?」
「・・・・・・」

こんな無謀な就職活動もないだろう、と今になると思うが
当時は必死だったのである。
「じゃあ、一回来てもらおうか。話だけでも」
「あ、あ、ありがとうございます!」
そうして会った伊藤さんと中岡さんは面接で、
わたしがまったくの「無知」であることに気づいたにもかかわらず、
その場でアルバイト採用を決めてくださった。
そして短大の卒業を控えた19歳の夏すぎから
この道一本、と決めていた「業界のアルバイト」が始まった。

どこの業界にも、業界用語というものがある。
最初は言われる言葉がまったくわからず
「外国」か「火星」に来たかと思ったくらいだった。

「朝一」「プレゼン」「ラフ」「色校」「写植」「級数」「版下」「初校」「ポジ」「流用」・・・
「トレペは、トレーシングペーパーの略ね!」
と言われても、すでに略される前からわかっていないので
「ははあぁ~っ」
と、わたしの返事はいつも
「お代官様を前にひざまづく町人」のようだった。

なにしろ、業界用語以前に、文房具の使い方がすでにわかっていない。
ある日、カッターを使っていて切れがわるくなり、刃を替えようとして
「どうしてこんなに長くするんですかね、どうせ捨てられるのに」
と、まだ10回は折って使える刃を丸ごと、捨てようとしていたら
「ほら~、こうやって刃の先を折りながら使っていくんだよ」
と、中岡さんは実演しながら、
カッターの奥義を教えてくれたのだった。

「ははあぁ~っ」
と、驚嘆のうめき声をもらす町人を眺める、
穏やかな中岡奉行(ぶぎょう)の目。
どんな無知にも、寛容な中岡奉行は怒ることはなかったが
それから自分のデスクに戻るとよく
「くっくっく」と、のどの奥で笑っていた。

そうして、あまりお役には立たなかったと思うが
この数ヶ月にあいだに、
わたしは数えきれないほどたくさんのことを教えてもらった。
文房具の使い方、電話の仕方、業界用語はもちろん
どうやって印刷物ができていくのか、すべての工程を初めて見た。

「あああ~っ」
色校が終わり、できあがった「ペンション&スキーガイド本」を
手にした瞬間の感激は忘れられない。
1ページ、1ページめくりながら
帰りの電車の中で、ため息をついては
ひとつひとつの作業が、こう実を結ぶのか~と、感動していた。

伊藤さんと中岡さんは、実務面だけでなく
このギョーカイのルールも、いろいろと教えてくださった。
「残業」という概念がないこと、
「できたら帰る」が、就業時間であること、
「会社の外にいるときもアンテナを張って生活すること」
つまり、人生に就業時間なし、生きているあいだすべてが仕事中であり、
また同時にプライベートでもある、ということを
19歳のわたしに、しっかりと教えてくれた。

戦場のような仕事場で、わたしは「拾ってきた小犬」のように
かわいがってもらった。
役には立たないが、いると、ちょっと場がなごむ感じ。
「でも、ここはさー、ちがうんじゃないの!」
「だめだよ、ぜんぜん」
とみなさんが、おそろしい口調でやりあっている横で
「ははあぁ~」
と、わたしはお茶など差し出しながら
お代官様やお奉行さまの、容赦ない「ダメ出し」を見守っていた。

一ヶ月もすると、仕事のあと「飲みに」誘ってもらえるようになり
それから25年の長きに渡って、おつきあいいただいている。

そして、今夜行く店は、わたしたちが仕事のあとよく「飲みに」行った
あの懐かしい、おいしいドイツビールのお店なのであった。

(「ニッポン驚嘆記・20」につづく)

 

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