第29話 タンゴを知りたい

帰国した目的は3つあった。
1つ目は家族に会うこと。
2つ目は日本食を食べることと日本食品を買うこと。
そして3つ目は“タンゴについて知る”ことだった。

タンゴは大好きだったがタンゴについては何も知らない。
一体どんな演奏家がいるのか、どんな活動があるのか、
とにかくタンゴについて知りたい。それも本ではなく、タンゴと共に
生きている人の話を聞きたい!

そしてもうひとつ、心の師であるタンゴピアニストのオマール・バレンテ氏と
ホセ・コランジェロ氏について。
CDを聴き大ファンになったものの一体どこで何をしているのか、何者なのか
果たして生きているのかもわからない。

そんな折、高校時代の恩師・高木先生からさっそく返事があった。
「どうやらタンゴ研究会という団体があり
木田さんという方がタンゴの専門家らしい」
教えていただいた番号にさっそく電話をしてみる。
ドキドキして冷や汗が噴き出してくる。何しろタンゴの専門家、大先生にいきなり
初対面で、タンゴのこれといった知識も無くタンゴについて教えて欲しい、と
頼もうというのだから自分でもとんでもないヤツに思えてくる。
でも、これが唯一のツテ、タンゴへの糸なのだ。

「あの木田先生ですか? 突然すみません。あの私、タンゴが好きなんです。
タンゴについて知りたいんです。でもどうやっていいのかわからなくて。
どっから始めていいのか。あの、私、何も知らなくて
でも、本当にタンゴが好きなんです!」
「……」
電話の向こうはしばしの沈黙。
「タンゴが好きなの?どんなの?」
「どんなのって言えるほどタンゴのこと知らないんです。
それで、だから、タンゴの世界に入るには
どうしたらいいのかと思って」
「……」
再び沈黙。
このまま切られたらたまらない。せっかくつかんだタンゴへの道が閉ざされてしまう。
「どうにでもなれ!」
とにかくタンゴへの想いだけは伝えねばならないと思った。
いきなり初めて電話した木田さんに、あの日のこと、偶然タンゴの舞台に出会い、
涙が止まらなかったこと、あの日、音楽屋になると決めたことを一気にまくし立てた。
「思い入れいっぱいの、泣きたくなるようなのがやりたいんです!」
沈黙。
ああ、これで切られても仕方ない。
これが今の正直な私の気持ちなのだから。
そう思ったとき、それまで黙っていた木田さんが口を開いた。
「君、何かで僕の書いた物、読んだ?」
「えっ、あ、すみません。勉強不足で」
「いや、今きみ“涙”って言ったよねぇ。びっくりしたよ。それは僕がいつも
言ってることだったんでね。涙なんだよな。タンゴはさ」
これには私の方がびっくり。ほっとしたついでに
「“スール”とか“ウルティマ・クルダ”とか“ガルーア”とか好きです」
「うんうん、いいねぇ」
「あ、それからオマール・バレンテ氏が好きなんです。私の心の師です」
「なんだ、オマール・バレンテが好きなの?
あいつを日本に連れて来たのは俺だよ」
「ええ──っ!!
オマール・バレンテ氏って何人ですか?
どこに住んでるんですか?
今も生きてるんですか?」
叩き込むように電話口で叫ぶ私にとどめの一言。
「ビデオが何本かあるぞ」
「お願いです!そのビデオを見せてください」
「うーん、じゃあ、東京に来る?」
「いつですか?いつ見れるんです?」
「明日しか時間ないんだけど」
「わかりました、明日行きます!」

5分前まで知らなかった人と
明日、東京で逢う約束をしていた。
“とんでもない”ことなのだろうが “出会うべき人”にめぐり会えたという直感は
体中をゆるぎない確信で満たし始めていた。

(第30話につづく)

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