ベラのこと・4「最後の日曜日」

CIMG1000 ベラの症状が悪化し始めた
9月の第二週。
私はいよいよ最期のときが
近づいてきたことを
はっきりと感じた。

いつ何が起こってもおかしくない。それはすべてのことが
「最後の・・・」
になりうることを意味する。

最後のバイオリン
最後のテレビ
最後の食事
最後の会話
最後の笑顔
最後の言葉・・・

そしてこの写真。
9月13日の日曜日。

私は今でも、おぼえている。
「これがベラの最期の日光浴。
私たちが楽しむ最後の日曜日だ」
と、はっきりと感じていたことを。

カメラのレンズから
べラの笑顔を眺めながら
涙があふれて仕方なかった。
それを喉に流し込む。
「こうしてテラスで
オウムと3人で過ごすのは
これが最後なんだ」
そのことがはっきりとわかり
私は言葉が出なかった。

そして事実、そうなった。

今、改めて写真を見て
ベラは幸せだったな、と思う。
9月21日に亡くなったベラ。
この写真は
その一週間前のもの。

自宅のテラスで日光浴をし
オウムに霧吹きで水をかけ
いつもと少しも変わらない
くつろいだ表情をしている。

カメラをのぞく私に
「マラガは今が一番いい季節だね」
と声をかけ
「イスの向きを反対にしてほしい」
と頼んだ。
もう一人ではイスから立ち上がることも
イスの向きを変えることも
できなかったから。

「いい眺めだな・・・」
海と空を眺めるベラの
痩せた背中を見ながら
私はまた、涙を飲み込んだ。

でも、と思う。
病院だったら
私たちはこんなに穏やかに
最後の時間をいっしょに過ごすことは
できなかっただろう。
たとえ1週間、2週間
命がのびたとしても。

いや、悲しみで
命は逆に
縮んでいたかもしれない。

私はベラを見るとき
グアテマラの密林、山岳地帯に住む
聖鳥「ケツァール」を思い出す。
その羽の美しさために
スペインの侵略者たちに乱獲され
絶滅の危機に追い込まれた
聖鳥ケツァール。

ケツァールは
鳥かごに入れると死ぬ鳥なのだ。
ペナ(悲しみ)で。

捕獲できない
飼えない鳥。
どんなにえさをやっても
大切にしても。
だから、次々と死んでいった。

ベラもきっとそうなのだろう、と思う。
どんなに快適でもだめなのだ。
自然、野生に生きる動物は
悲しみで、死ぬ。

私が今
18年間のベラとの生活を振り返り
またベラの最期を思う時
ケツァールのことが思い浮かぶ。
強くて弱い聖獣。
私は野生動物と暮らしていたのかな、と思う。

 

Facebook にシェア
[`google_buzz` not found]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です