第76話 演奏中の告白

『マラガ下町コミュニティ』の人々は、基本的にフリーランスで『定収入』がないので、会社勤めをしている人にくらべると、人生に変化が多い。
そして、なんでも自分でしなくては、ならない。

日本のような『職安システム』がなく、自分の資格や特技を生かせるような土壌もないので、みんないつも、目を皿のようにして『仕事』を探している。

この9月、わたしたちトリオのコントラバス、エルネストにやっと『先生の辞令』が下りた。何年も待ってのことだったので、みんなうれしくてお祝いをした。
音楽学校の先生として、マラガを離れ、北スペインへ行く。
「これでトリオは解散になるけど、今度は先生として、がんばってね!」
わたしたちは、トリオ最後の仕事となる『ホテルのコクテル・パーティ』のため、最後のリハーサルをしていた。
この仕事はクワルテットで依頼されていたので、チェリストのルイスも、現地で合流した。
「ルイス、元気だった~?」
「元気、元気♪」
あいさつのベソ(ほおのキス)をしようと近づくと、ぷわ~んとアルコールの匂い。「あぁっ、また一杯ひっかけてきたでしょう」
ルイスのことを知るものなら誰もが知っている、暗黙の了解。
彼は演奏前に、必ず『ジン』を2,3杯いただくのである。
それでも、ちゃんと弾くからすごい。立派だ。たぶん日本だと、演奏以前に『生活指導』にひっかかりそうだが、スペインでは『結果よければすべてよし』なので、今までとやかく言われたことはないと言う。

わたしは知らないが、一度ルイス、エルネスト、ベラたちがマラガのなんたらオーケストラに参加して、ガリシアへ演奏に行ったことがある。
1000キロも三人で運転して行った、ってことがすでにすごいが、
そこで、ルイスはロシア人のバイオリニストと意気投合して、なんとコンサート前にジンを2本、二人であけたというのだ。さすがにベラも心配して、
「ビバルディ、弾けるのかなぁ。あの二人、ソロのパートがあるのに・・・」
そうして始まったビバルディ・コンサート。オーケストラの部分が終わり、いよいよソロのパート。
「あ~あ~あ~」
ベラは自分のことにように落ち着かない。が、なんということか、みんなの心配をよそにロシア人とルイスは、見事にソロパートを完全に弾き切ったのだった!「美しい~!」
ジンが入ると、こうも音色に輝きが増すかと思われる出来ばえだった、とのちにベラは語った。
そのときは知らなかったが、ルイスは若くしてロシアの音楽学校で数年間、しっかりとレッスンを受けたツワモノだったのである。
「いやー毎日、すごい練習だったよ~!」
けっしていばることのない、いつも穏やかに笑っているルイスに、こんな過去があったなんて。う~ん。

さて、パーティが始まり、わたしたちクワルテットも演奏を始める。
なんだか妙な気分だ、これでエルネストと弾くのも最後だと思うと。
そのとき、突然ルイスが口を開いた。
「実は僕、今日が最後の演奏になると思う」
「ええーっ!」
「音楽屋は収入が低いから、保険屋になることにしたんだ」
「そんな・・・」
「でも、チェロはずっと弾いていくよ。第二の仕事としてね」
弾きながら言うな、こんな大切なことを!
でも、わざとそうしたのかな、誰も何も、言えないように。
はにかむようなルイスの笑顔が、わたしは大好きだった。
結婚式でルイスが弾いた『白鳥』の、美しいメロディを思い出す。

わたしたちは一瞬、息ができないくらい悲しくなったけど、すぐに笑顔を取り戻して、弾き続けた。
「楽しもう!」
わたしたちは、目で伝えあった。今わたしたちにできる最高のことは、音楽をいっしょに楽しむこと。そして、最高の演奏で、ルイスを送り出すこと。
ルイスのこれから始まる第二の人生に!

この会場にいる誰も、今日がルイスの最後の演奏だとは、思ってもいないだろう。
そして、わたしたち四人が、こうしていっしょに弾くことはもう二度とないことも。華やかなパーティと同じところで、今、最後のものが、ひっそりと終わりに近づいていた。
誰にも気づかれないまま、花びらを閉じようとする、一輪の花のように、わたしには思えた。

 

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