ベラのこと・16「ラストダンスは私に」

あんまり大切な思い出なので
これまで口に出せなった
ベラとのエピソードを
今日、やっと書こうと思う。

亡くなる3,4日前だったと思う。
モルヒネの痛みどめが
飲み薬も貼り薬も効かず
救急ドクターによる
「注射」だけが頼りとなり
12時間おきにモルヒネの注射が
打たれ始めた頃だったと思う。

注射が効いて
ほっこりとくつろいだ表情で
ベッドの端に座っていたベラ。
ちょうど娘のカロリーナと
5歳になる孫のケイラが
来てくれていた。

「もも、なんて顔してるの」
肩を並べてベッドに腰かけている
私に向かって突然
ベラが話しかけた。

私は仰天した。
その口調が今までの
元気なときのベラに戻っていたから。

ここ一週間
モルヒネの増量で
酔っ払いみたいな口調だった。
人格は変わらないが
ろれつが回らなかったり
聞きづらく何度も
「えっ、なに?」
と聞き返しさなくてはならなかった。

それが、どうしたことか。
まったくいつものベラなのだ。
はっきりとした口調。
その表情はいつものベラで
眼尻には微笑みまで
にじませている。

「ベラ、だいじょうぶなの?」
思わず、正気か確かめようと
聞いてしまった。
「僕の頭が?」
いつもの笑顔が浮かび
ベラはその大きな腕で
私を強く抱きしめた。

信じられなかった。
薬の作用がそうさせたのか
わからない。
でも、これは
私に与えられた贈り物、だと思った。
何分、続くかわからないけれど。

その瞬間、私の両目から
涙がどっとこぼれ落ちた。
それを見たベラは
「ボルーダ、デハ・デ・ジョラール」
と、ウルグアイ訛りの
くだけたスペイン語で言った。
「バカだなぁ、泣いてないで」

そして、なんということか
ベラは私の手を取ると
「バイラモス?(踊ろうか)」
と言ったのだ。
「えっ・・・」

驚いている私の両手を取り
私たちはベッドの端に
腰をかけたまま踊った。

ベラは鼻歌まで歌っている。
その声に驚いて
カロリーナとケイラが
寝室へやってきた。

私の涙でぐちゃぐちゃになった顔は
ベラはたぶん見ていないだろう。
チークダンスだったから。
その泣き顔を見ていたのは
カロリーナとケイラだった。

「どうして踊ってるの?」
5歳のケイラが聞く。
「愛し合ってるからだよ」
カロリーナは寝室の入口に
立ちつくしたまま答えた。
「じゃ、どうして泣いてるの?」
ケイラがまた聞く。
「うれしいからだよ。
ああやって二人で踊れるのが」

カロリーナは涙を流しながら
「二人っきりにしてあげよう」
とケイラを連れて出て行った。

たった3分のダンス。
ベッドの端で踊ったチークダンスを
私は忘れない。
いつも音楽がかかるとベラは
すぐに私の手を取って
リビングで踊り出した。
何十回、何百回と。
でも、このダンスほど
私を幸せにしたものはない。

「ラストダンスは私に」
これが、私たちのラストダンス。
こんなすてきな贈り物を
最後にありがとう。

私たちはキスをし
ベラは再び、ベッドに横になった。
それからもう二度と
ベラの口調も意識も
晴れやかにはならなかった。

あの、つかのまの
魔法のような時間は
何だったのだろう。

モルヒネの作用なのか。
ベラを一瞬、正気に戻してくれた
薬に、ドクターに
天の力に感謝した。

病院に入院していたら
こんなダンスのチャンスは
たぶんなかっただろう。

家にいたからこそ
24時間いっしょだったからこそ
こんな贈り物を、瞬間を
私たちは与えられたのだ。

書きながら、また涙が出てきた。
でも、この涙は
あの日の涙とはちがう。

「この人を失くすのだ」
という深い悲しみは
今はもうない。

「ありがとう」という
感謝の気持ちだけになった
私の心には平穏がある。
涙の後に、私は笑う。

 

~音楽と絵の工房~地中海アトリエ・風羽音(ふわリん)南スペインだより