私の生き方のもとを作った母

CIMG2470 母が他界して2か月がたつ。
あんまり急に
母とベラと
大切な家族を二人
たて続けに亡くしたので
時々まだ信じられない
気がする。
事実として頭は認識していても
心は追いついて
いけないようだ。

最近やっと夢に
ベラや母が出てくるようになった。
目が覚めてから
「あ、もういないんだな」
と、思う。

母にとって私は
理解のしにくい娘だった、と思う。
誠実でまじめで
まっすぐなことが好きな母からしたら
音楽屋の私は
マイペースでボヘミアンで
先も見えず保証もなく
ふらふらと危ない生き方に
見えたにちがいない。

小さい頃から私は
母にあまり物事を
「相談する」ということがなかった。
自分の中でたえず
決心、決断されていたので
伝える時はいつも
すでに「決定事項」であり
「事後報告」であった。

それを「よくない」と
初めて教えてくれたのがベラで
「相談されると、うれしい」
と恥ずかしげに言われたときは
本当にびっくりした。

そんな調子だったので
就職活動も自分で始め
就職先も勝手に決め
スペイン行きも
ピアニストになることも
ベラと住むことも
すべて「決まったこと」として
母は知らされた。

母にしたら
得体の知れない生き物に
思えたにちがいない。
「とても自分が生んだ子とは思えない」
くらいは女友達に
言っていたかもしれない。

が、母の知らないことが
ひとつある。
いつか言おうと思いながら
機会を失い
結局、伝えることが
できなくなった。

それは
「私の生き方のもとを
作ったのは、母だ」
ということだ。

具体的に言うと
母はこれまで八回
手術をしている。
私が小さい時から
「母の入院」は
うちの日常的な風景であった。

今でもはっきりとおぼえている。
私が高校生の時。
母が入院している病室へ
長い廊下を歩いていく時だ。

どこの部屋にも
患者さんがいた。
おじいさんもおばさんも
お姉さんもお兄さんも
同い年の、まだ学生の子たちまで。
どう見てもふつうの人たちだ。

そのとき、私の全身に
強烈な衝撃が走った。
「いい人なのにどうして
痛い目にあわされるんだろう」

まじめに生きていた人が
ある日、いきなり病気と言われ
入院、手術になる。

悪いことをしては、いけない。
と教わった。
が、ここにいるのはみんな
ふつうの、いい人たちばかりだ。
だったら、なぜ。

その原始的な「怒り」は
高校生の私を震わせ
そして不思議な結論に導いた。

「私は、いい人より
大事をまっとうする人になろう」

どんなにまじめにやっても
神さまは見てくれないようだ。
だったら・・・
と、私は神に見切りをつけた。
そして
「自分をあてにする」
ことにしたのだ。

できるだけ早く
自分の大事を始めよう。
神さまや、誰かの目なんて
どうでもいい。

その決意は
一瞬でなされた。
声もなく。
病院の廊下で。
高校生の時に。

そう思ったから
就職活動でも迷わず
クリエイティブなことのできる
制作会社、編集者、広告代理店などに
しぼって電話をかけ、面接をした。

そう思ったから
スペインへ行った。
ピアニストになった。

そして
ベラといっしょになった。
結婚という手続きをふまず
いっしょに暮らし始めた。

母にしたら
「いったいどうなってるの」
の連続であったろう。

そしてまさか
私の「思ったら行動」の源が
母であったとは
思ってもいないにちがいない。

母はいつも「鶴」を折っていた。
うちのマラガのリビングにも
母からもらった千羽鶴が3つ、
つまり三千羽、飾ってある。

母はよく自分のことを
「野鳥の母」
と言っていた。
私の日本帰国が近づくと
「もうすぐ野鳥が渡って来るねぇ」
と笑っていた。

私に
「一人でも飛べる翼」を
贈ってくれたのは、母だ。
病院のベッドの上で
痛さに体を折り曲げながら
私はその羽を、授かった。

音楽屋になるまで
何があっても、愚痴を言わない。
文句を言わない。
授かった命を
全力で生きる!

「羽」と引き換えにした
その決心は
今に至っている。

 

~音楽と絵の工房~地中海アトリエ・風羽音(ふわリん)南スペインだより