べラは何語を話せるの?

べラです。
クロさん、質問をありがとう!うれしかったです。

僕は、南米のウルグアイで生まれました。
ウルグアイは「スペイン語」なので
町の中や学校は、すべてスペイン語です。

でも、僕の家族は、両親も祖父母も
全員ハンガリー人なので、家の中は「ハンガリー語」です。
大戦後で仕事がなく、新しい世界に未来をかけて
僕の家族はハンガリーからウルグアイへ
ヨーロッパから南米へ、移民したのです。
すごい決断だったはず(しみじみ~)

両親は、最初は言語もわからず
とても苦労したといいます。
朝早くから夜遅くまで、働きに働き
ついに土地と家を手にすることができました。
おかげで僕は、馬、牛、豚、あひる、ニワトリ、犬、猫たちと
暮らすことができて、よかったな。
家畜を殺すときは、嫌だったけど。
その日は、妹と一緒に家から逃げ出してたよ。

そうして、家の中は「ハンガリー語」
学校は「スペイン語」だったので
僕は、自然とバイリンガルとなりました。
でも、おじいちゃんはずっとハンガリー語のまま。
僕を叱るときも、いつもハンガリー語(笑)

というわけで、僕の第一言語は「ウルグアイ語」、
第二言語は「ハンガリー語」です。

その後、チリのオーケストラで
バイオリニストとして働いている時
人生を変える事件が起こりました。
1973年9月11日、チリで起こったクーデターです。

民衆に支持されていたアジェンデ政権が倒され
ピノチェトによる独裁政権が始まります。
アメリカのCIAによる全面的な支援によって
行われた「チリ・クーデター」。
反対する市民は、容赦なく狩り出され
拷問、虐殺されました。
僕は、命からがらチリから脱出しました。
でも、殺されてしまった仲間がたくさんいます。

この歴史的な出来事は
「チリ・クーデター」として載っているので
よかったら、ぜひ読んでみてください。

ウルグアイはすでに独裁政権のまっさなかで
帰国することができず、アムネスティの力をかり
多くの南米人が、スエーデンに渡ることになります。
僕もその一人でした。

当時のスウェーデン首相はパルメ。
人道主義で、多くの難民を受け入るれことで有名ですね。
僕たち、避難民にもすぐにパスポートを発給し
家と食事を与えてくれました。

それから、北欧スウェーデンでの生活が始まります。
南米から、いきなり北欧。寒かったなぁ(笑)
というわけで、僕の第三言語は「スウェーデン語」です。

僕が話せるのは、以上。
英語とフランス語は、おまけていどです。
日本語は・・・・勉強中。

お世話になりましたー。
「プレグンタメ~!(質問してね)」

(文・べラ 訳・もも)